尺八 都山流 分裂記録

尺八の最大人口を誇るのは、中尾都山によって創始された、都山流(とざんりゅう)である。
だが昭和50年前後に、熾烈なお家騒動および権力闘争を経て3派に分裂し、今も確執は消えてはいない。

その事実は広く知られているものの、詳細はオブラートに包まれている。
今も京都の舟岡山のふもと、たおやかな光景の場所に都山流本部は所在しているが、その落ち着いたたたずまいからは想像できない過酷な争いが繰り広げられ、一部はまだ続いている。

その経過を、当時の一次資料を交えて概説する。

都山流尺八「楽会」本部

京都市北区紫野北舟岡町12

分裂したのちの3派

1.「都山流尺八楽会」 高平艟山側

2.「新都山流」 児島正典側

3.「都山流尺八連盟」 島原帆山側

●事の起こり

明治9年10月に枚方の油問屋に次男として生まれた流祖、中尾都山(本名:琳三)には子の居る本妻が居た。

本妻が亡くなったあと、レンという芸者上がりの妾ができた。同棲はしたものの本来は入籍しない事にしていたが、稀一という子供が出来た事から入籍した。これが後の悲劇の数々の、不吉な発端である。この稀一が流祖亡き後に二代目宗家を継承した。

レンを流祖に世話したのが京都の遠藤眠山(みんざん)であり、試験等で必ず使用する「楽理の手引き」を著している。その弟子が田中森山で多くの弟子を養成している。

レンは後述のように複雑な経緯を経て三代目宗家となる。

なお四代目宗家(本名:中尾正幸)は流祖本妻の子の直系、流祖の孫に当たる。

流祖(初代) 中尾都山(琳三)

流祖(初代) 中尾都山(琳三)

芸者上がりの流祖の後妻 レン

芸者上がりの流祖の後妻 レン

分裂後に、三代目「都山流尺八楽会」宗家となる

●高平 艟山

分裂騒動の際に暗躍した高平艟山(たかひら どうざん)は当時、都山流尺八楽会(がっかい)の常務理事の役職にあった。アクの強さは有名で、金・権力・性のいずれにも驚くべき欲の強さを示していた。

「あくなき金欲」

すさまじい金欲の持ち主であり、師範試験問題の漏洩による裏金は日常茶飯事であった。当時は多い時で50人程度の受験者が准師範・師範試験ともに居た。受験者数の最高記録は鹿児島県師範試験の87人である。それが各月全国持ち回りで試験をしていた。問題漏洩の見返りに少なからぬ賄賂を得ていたのである。

漏洩の仕方はあからさまで遠慮のないものであった。聞き取り試験では、奏者の前に事務員が楽譜を置き、受験者は吹奏された曲名を回答する。
ある四国での師範試験では、事務員である飯岡が聞き違えて「若菜(わかな)」という独奏曲の楽譜を置いた。出題者としては二重奏曲であり全く異なる曲である「若葉(わかば)」のつもりであったところを、である。奏者は当然二名座っていたが、一人が「若菜(わかな)」を独奏し、一人は演奏せず終了まで座ったままでいた。
しかし、受験者の少なからぬ割合が「若葉(わかば)」と回答した。すなわちその受験者は問題漏洩をうけており、しかも回答した曲が独奏か二重奏であるかすら知らなかったのである。

ちなみに飯岡は稀一と同じ小学校で仲が良かった。京都北大路で日産の自動車販売会社に勤めていたが、稀一の頼みで退職し、都山流の事務員として勤めることになった。

裏金システムの組織化

高平艟山は、師範試験の前日に、「講習会」と称して有料の解説を行った。体よく形を整えた問題漏洩の場である。その参加費は大半、高平が私的流用していた。それを京都支部長であった山下舟山(しゅうざん)がとがめると、「お前は分かっとらん」と高平に一喝され、そのまま沙汰やみとなってしまったという逸話もある。

高平 艟山

高平艟山

高平は他流派との交流を禁じ、専制政治を敷いた割には、求められると嬉しげに祝辞を書いている。
島原帆山が琴古流の尺八を持ち笛としていた事を、攻撃の言いがかりとしていた。

「野村 正峰」と高平 艟山の金銭トラブル

都山流は以前は口伝であった尺八曲を、楽譜化したことにより爆発的に広まった。楽譜は京都・姉小路通りの都山流事務所で販売していた。印刷所は以前は東京であったが、高平艟山が前川合名会社に変更させている。

名古屋の筝曲の家元に野村正峰(せいほう)が居た。都山流から楽譜の出版を希望したが、高平艟山が裏金を要求した。野村正峰は怒り、拒否した。その結果野村は自前で正絃社から出版し今に至る。そのため取り上げられる機会は多いが、現在でも多くの野村曲は都山流公刊譜としては入手できない。

ちなみに現代を代表する尺八奏者、野村峰山(ほうざん)は、野村正峰の養子である。世話をしたのが、製管師(尺八製作者)の河野玉水(現河野玉水の祖父)である。

野村正峰(前列中央)と峰山(左後ろ端)

「竹琳軒 正(ちくりんけん せい)」

権力の点では、本稿の主題である分裂騒動のあと、高平艟山は理事長として君臨し、年2000万円の報酬をほしいままにしていた。

また都山流の音楽上の最高位は「竹琳軒(ちくりんけん)」と呼ばれる位であり、長らく流祖に直接指導を受けた高弟にしか許されなかった。しかし高平艟山は「竹琳軒 正」なる職位を創作し、自らがそれに収まるべく画策した。宗家ですら竹琳軒であるから、宗家より上位にあるということである。
これはさすがに問題視され実現することはなかった。

高平艟山は釣り針屋の息子である。店自体は叔父に売却している。先妻と離婚し、人間国宝・菊原初子の弟子である菊庭(きくば)和子と再婚した。尺八の師匠は角山伍山である。のちに初代・星田一山(いちざん・流祖直門)にも師事している。ちなみに初代・星田一山の養子である二代・星田一山は、当時演奏においてのちに人間国宝となる島原帆山(はんざん・後述)と双璧をなしていた。

高平は自称・職業演奏家であり、菊原初子との「残月」の合奏レコードを都山流から発売している。拙い出来栄えであり、菊原初子がいやいや演奏しているのが誰の耳にも聞き取れる演奏である。しかし高平が鉄面皮なのは、売り上げを上げるために後に人間国宝となる山本邦山の「八重衣」の歴史的名演を、このレコードの裏面に入れたことである。聞き比べると目も当てられない。売り上げのためには何でもする男であった。

後述のように中尾レンと共に大のマージャン好きであった。息子が自衛隊に勤めていた舞鶴の高平鉄山である。

人間国宝・菊原 初子

●二代目宗家 中尾都山(稀一)

稀一とレン

稀一・レン

稀一(きいち)はいわば過保護に育てられ、またプレッシャーから尺八から逃げて回っていた。武蔵野音楽大学に進学したが中退している。ただそこは多額の寄付をしたのか詳らかではないが、「卒業」したことになっている。

武蔵野音大でオーボエを学んでいた時に出会った声楽家が、妻となる児島和代(かずよ)である。美人で週刊新潮のグラビアに載った事もある。ただし親族周囲は、広島の杉原泰山が世話をした島根・出雲からの別の女性を妻として推していた。和代を上回る美人である。結果的に稀一は一度はこの縁談を受け入れて、結婚式までしている。

しかしながら、稀一は伊丹空港に来て新婚旅行に出発するタラップを上がる直前になって、この結婚を拒否した。どうしても行かないと言い出して聞かなかった。和代の事が忘れられなかったのである。そうして縁談は破談になった。

この場には中尾レン(稀一の母)、後述の人間国宝・島原帆山(はんざん)、英(はなふさ)という事務員が居た。島原帆山も杉原を通して縁談を進めており、大いに憮然とした表情で帰っていった。

なおこれには後日談がある。破談となった女性は頼りがない状態となって、京都の稀一宅から大阪・豊中に単身転居した。その転居先マンションは高平が世話し、荷物は高平がレンタカーで運んだ。
驚くべきことに、島根にかえるに帰れなくなった彼女に高平艟山は付け込んで、男女の関係としている。

和代・稀一・美都子

和代・稀一・美都子

●二代目宗家・稀一のアルコール中毒と肝硬変

稀一は周囲のプレッシャーから逃げてアルコールばかり飲んでいた。初代・星田一山(いちざん)が大阪から出張稽古に来ていたが、会えないことが多かった。後述の富井舜山(しゅんざん)に「失礼ではないか」咎められると、「先生も千鳥とか小さい曲でいいから一曲吹けたらそれでいい、と言ったはるではないですが」などと言い訳をしていた。

「ダルマ」と俗称されるサントリーのウイスキー(サントリーオールド700ml)を愛飲した。いわばわがままに育てられたボンボンがそのまま大人になれずに酒に走ったのである。そのため20歳台にして肝硬変となってしまった。

優しい顔立ちの好男子であったが、後述の文書にもある通り、一時期から吹き出物で顔が埋め尽くされ、乳房が女性のように膨らみ始め、かすり傷でも出血が止まらなくなり出した。周囲は酒が悪いとわかっているので止めにはいり、家から酒瓶を隠していたが、金持ちで顔が通っていたことから稀一は酒屋に行ってはウイスキーをツケでいくらでも買うことが出来た。焼け石に水である。

ダルマは一日1本空けていた。これでは、治る見込みは全くなかった。

二代目宗家 中尾 稀一

●実力者 富井 舜山

京都市長も勤めた眼科医の富井舜山(しゅんざん・本名 清)は初代中尾都山の高弟・藤井隆山(りゅうざん)の弟子であった。彼は2代目を稀一が継承したときに大きく貢献し、以降絶大な発言権を持つようになった。

前述のように昭和31年の初代の逝去後、継承争いが本妻の嫡子:治正(はるまさ)と、妾のレンの子:稀一の間で起こった。
稀一を推したのが岸信介の親友である森田鸞山(らんざん)、島原帆山、富井舜山であった。治正がわについたのが、初代・池田静山(せいざん)、永田彰山であり、強度の争いとなった。

結局稀一が継承したが、富井舜山は敗者側の池田静山にも配慮をし、子である二代・池田静山を引き立てている。二代・池田静山自身が「富井先生は政治家ですなあ」との言葉で懐述している。

この天賦の政治的バランス感覚と卓抜した統率力から、富井は以降都山流の実力者として君臨した。筆頭常務理事も長く務めている。本物の自民党政治家としても京都市長として実力を発揮している。ちなみに彼にとっては京都市議会に比べれば都山流理事会は子供だましのようなものであったようである。京都市議会の休憩時間、共産党議員からの突き上げの激しさにトイレで隠れて泣いたと富井は周囲に語っている。

●高平艟山の策動

一常務理事(理事会=執行部、当時常務理事は4名、理事長=宗家(稀一))に過ぎなかった高平ではあるが、この手のあくなき欲望の主にありがちな楽天性を持って、着々と権力奪取に向けて策動していた。
昭和48年の理事会で「継承者は流祖の直系の子孫に限る」との都山流規定を、こっそりと他議題に紛らわせる手法で廃止し、説明を行ったとの一文を議事録に残させている。当時の出席者はおろか流祖の親戚もだれも気付いていなかった。おそらく中尾レンを除いては。

都山流本部会計の私的流用にも歯止めなど掛かるものではなく、昭和46年以降はまともな会計帳簿は存在していなかった。金庫から150万円の金がなくなり、それを二代目稀一の義父が気づいて周囲に尋ねて回るとしばらくしていつの間にか戻っていた、といった事件は有名である。

こうした高平の権力の源泉は、二代目宗家稀一の母、流祖の妾であったレンとの関係である。高平は宗家宅に入り浸り、毎晩のようにレンを交えて徹夜マージャンをしていた。駆り出されてメンツとなった流人の証言が多々ある。後に文献を示すように、「枕芸者の女狐を食った古狸」と周囲からは認識されていた。

こうした高平の専横を苦々しく思っていた急先鋒が富井舜山と彼のあとに筆頭常務理事となった島原帆山である。島原は後に人間国宝になるほどの腕であったが政治的統率力には秀でていなかった。富井がにらみを利かせている間はまだ高平も爪を隠していた。

しかし富井は昭和45年に脳梗塞で倒れている。倒れた事実はひた隠しにして富井は京都から六甲山の療養所へ移っている。半身不随で顔面も含む硬直拘縮となった姿を、富井は決して周囲に見せようとしなかったが、頭脳は保たれており、書面を通じて病気を隠して業務を行っていた。しかしその富井も昭和49年5月19日に逝去する。高平が牙を剥いたのはその時からであった。

●二代目宗家・稀一の逝去

稀一の肝硬変は悪化する一方であった。昭和48年後半に入るとかかりつけの京都回生病院では手に負えなくなり、本人は病院を嫌がるものの周囲が強制的に京大病院に連れて行った。そこで主治医となったのが京都の尺八の実力者あった外科の助教授・増田都意山(といざん)である。末期の肝硬変であり、医学的には回復の見込みはなかった。12月に入って食道静脈瘤破裂を起こし大量吐血で危篤となった。しかし京大病院の医療と、流人がこぞって提供した献血に助けられて、一命を取り留めている。

奇跡的に一時回復したが、稀一の母であるレンが迷信している鍼灸師を連れてきた。その「このままでは病院に殺される」「絶対に治して見せる」との言葉に騙され、京大病院を夜逃げし、また酒を飲み旅行に行きだした。高平がそそのかしたと、周囲からは認識されていた。そして高平は京大病院の悪口を吹聴し、稀一の逝去後も「京大病院の増田が殺した」と触れて回っていた。京大病院からは二度と来ないでくれと言われ、有名となっている。

昭和49年10月12日午後6時33分、稀一は30歳という若さで京都回生病院にて逝去した。義父の児島氏の文書によると壮絶な死であったようである。

「11日には既に尿が血液に廻り脳が犯され、精神は勿論のこと目も耳も口も正常でなく肝硬変特有の最も悲惨な末期症状の苦しみの状態で麻酔薬をいくらうっても脳が犯されているから暴れ苦しみ、其の身を飯岡と治正氏が押さえ付けているのを病人は苦しまぎれに最後の死力をふりしぼり跳ね起きて暴れ、見境なく飯岡氏を殴り付けたのである。」

「口には苦しまぎれに自分の舌を咬み切らないために開口器をはめられ、其の形相は余程恐ろしかったのか飯岡氏は死後になってもいつも其の時の宗家の形相が目に映り夜も寝られんと、又宗家と友人でなかったらよかったと後悔と告白をしておられた。」

なお、危篤の報を聞いて駆けつけた増田都意山を、中尾レンは病室にも入れずに追い返している。

●高平艟山のニセ招集による臨時参事会

二代目宗家、中尾稀一が上記のような死を迎える直前(同日)の10月12日の午前10時に、臨時参事会(宗家の諮問機関、通常は理事+評議員)が開かれた。規定では、宗家しか召集をかけることはできない筈であった。招集者は稀一であったが、これはニセモノであり、高平が偽って召集したものである。稀一は人事不肖の状態であり召集など出せるはずもなかった(高平は「意識清明であった」「八田愴山(はった そうざん)から稀一への上奏で召集された」と反論書には書いている)。

また、参事のうち反高平の島原帆山、五十嵐疏山(りゅうざん)はなぜか本人の知らぬ間に解任されていた。

この席で、前述の都山流規定・第一条・第一項である「宗家の世襲制」を削除することが最終決定された。それにより稀一の子、美都子(当時7歳)以外の人物が宗家を継承することが可能となった。要するにレンである。

レンは稀一逝去の約10日のちの10月23日の参事会で3代目宗家を襲名した。

人間国宝・島原帆山

●高平による経理不正の露呈

分裂に至る紛争が着火したのが、高平による経理不正が発覚したことであった。

昭和49年2月2日から3日にかけて、12名の評議員(理事の選出を担当する。会員による選挙で選ばれる規定であったが、同時期に高平が理事による任命制に改悪し、それも問題となった)からなる評議会が京都サン・フラワーホテル(現・ホテル平安の森京都)で開かれた。その使用料は高平の横領のために2年にわたって未払いとなっており、当日にホテル側から強硬な請求が都山流に対してなされた。これにより不正経理の疑いが上層部の間で広く確信されるようになった。

怒った評議会は高田正康公認会計士に依頼し、3月5日に財務調査を開始した。納入済の多数の会員の楽会費が未納扱いにされており、今西高雄なる人物に誰の了解も得ることなく150万円貸し付けていたなど、不正が強く疑われた。しかし3月16日の2回目の調査のとき、高平が乱入し、高田会計士が持ち帰ろうとしていた会計帳簿を強奪した。高平は「経理の改善」のためと称して後藤芳朗公認会計士に、「事務引き継ぎ用に」昭和48年度のみの決算の調査を依頼したが、それですら170万7742円の使途不明金が指摘された。

評議会側は5月1日に不正追及のための臨時評議会召集請求書を理事長(二代宗家・稀一)に提出した。それに対し高平は各評議員を個別に恫喝したが、12人中10人は取り下げを拒否し評議会は開催されることとなった。

しかし高平は、6月23日に開かれたその評議会に肝硬変末期の稀一宗家を担ぎ出し、稀一に使途不明金の陳謝をさせ、自腹で全額穴埋めすると述べさせた。稀一自身が周囲に、俺が高平の分を全部かぶったんや、と語っている。病気(末期肝硬変に由来する肝性脳症)もあり、完全に高平の言いなりになっていたのである。

この高平の行為により、反高平側の不信は頂点に高まった。

●二代宗家稀一の義父・児島正典

全国的に紛争が広く知れ渡るようになったのは、二代宗家稀一の妻、和代の父の児島正典(まさのり)が全国の都山流会員に送付した書状である。昭和50年2月15日、6月10日、8月15日のものが確認されている(写真参照)。一部は前に引用したが、高平への不信と、息子へのレンの冷淡さに対する怒りに満ちている。

児島正典は資産家の息子である。ただ正典自身も支配への強い執着を持つあくの強い人物であり、のちに島原帆山との対立が決定的になる。そのため、反高平勢力がさらに二つに分裂する直接的原因となっている。

●都山流尺八楽会と都山流尺八協会への分裂

高平の専横に怒り頂点に達した多数が、島原帆山を代表として昭和51年2月付で、都山流尺八団体改革推進実行委員会の名で声明書を発表した。(写真参照・全文)

それに対して高平は3月1日付で持ち前の文章力を生かして大部からなる反論の声明書を発表した。

島原側は、それに対して3月11日付で役員の総辞職を要求する声明書を発表した。

高平はそれに対する回答として、島原帆山を3月15日付けで除名処分とした。

その間、高平は宗家となった中尾レンおよび森田鶯山の名前で、反高平の可能性があった有力者に査問会への呼び出し状を送りつけた。それを無視した大阪の高野栄山、東京の五十嵐疏山、北海道の大谷如山、兵庫の狩谷箏山を4月9日に除名処分とした。

島原側は3月27日に個別に反論した声明を公表した(末尾写真参照)。

その上で、4月12日に大阪上本町の「なにわ会館」で「都山流尺八協会」の設立を宣言した(写真参照・都山流尺八協会会報)。こうして都山流は分裂した。
島原帆山や児島正典の率いる「協会」は稀一の長女、美都子(みつこ・当時7歳)を宗家とした。宗家が二人いる、いわば南北朝のような状態となったわけである。それは現在に至っても解消していない。

以降双方の壮絶な会員引き抜き合戦が繰り広げられることとなる。「協会」側には著名な実力者も多数参画したことから、動揺は全国的に深刻なものであった。

「新都山流」宗家 中尾美都子

●会員争奪合戦と怪文書

これらの騒動の過程で、さまざまな怪文書が乱れ飛び、全国の流人に送り付けられた。一例として「川柳 句山」によるものを下に示す(写真参照)。 

 都山流 聞くもあわれな 物語り
 血迷わず 近代医学 えらぶべし
 宗家さま 枕芸者の 血が流れ
 レン喰いて 夫面する 古狸
 女狐は 狸と組で 子を殺す
 高平の 竹の動きに 身を焦がし
 色欲は 宗家の生命 もらうまで
 子の生命 助けたいなら 尼になれ

とはよく言ったものである。

●右顧左眄する流人たち

都山流には支部が各都道府県におかれていたが、日本中の支部で分裂したどちらに着くかで、大混乱におちいった。高平側の「尺八楽会(がっかい)」、島原側の「尺八協会」である。

実力者の統率が利いており、大半がどちらかに籍を置いた支部もあれば、癒える事のない傷を残して分裂した支部もある。

稀一の主治医であった京大外科助教授、増田都意山はこのような騒動に巻き込まれたにもかかわらず、「楽会」へ残った。「出て行ったところは必ずさらに分裂します」と周囲に語っている。事実後日、内紛から「協会」は島原側の「尺八連盟」と児島正典側の「新都山流」に分裂する。慧眼と言う他はない。

同じ京都支部で言うと、木本勝山(しょうざん)は「協会」へ行っている。彼は最終的に合格せず諦めたものの司法試験を受け続けていて法律関係に明るかった。そのため富井舜山からも法務関係の相談を引き受けていた。木本は「協会」の事務局の責任者となり、オフィスを烏丸御池東に設けている。

さらに象徴的なのが、富井舜山の実子である富井輦山(れんざん)である。「御所の秋」などの作曲も残している。彼はコウモリのように、「協会」に入ったが「楽会」に戻った。混乱する流人を代表するかの如きである。
父の富井舜山の頃から、舜山の高弟達および輦山は、京都の筝曲家・富小路雅楽女から毎年助演を依頼されていた。しかし輦山は「協会」に入った事から「楽会」に残った側から問題視され、富小路雅楽女に出演を断られた。それにあわてて昭和52年4月に輦山は「楽会」に舞い戻っている。

●高平理事長

このような熾烈極まる争いを、制したとは言えないまでも、経て、高平は「楽会」理事長に就任する。それまでは宗家が理事長であったが、その地位に「のぼりつめた」訳である。お手盛りの予算による理事長報酬は年2000万円であった(なお現在は公益財団法人化されており、使途への厳しい制限があるため、理事長報酬は高平のような法外な額ではない)。

しかし高平にとってもこの争いは負荷の大きいものであったらしく、「楽会」顧問弁護士であった中坊公平は、高平が土下座して助けてくださいと頼んで来た、と4代目「楽会」宗家となった中尾正幸(初代直系の孫)の結婚式のスピーチで語っている。

高平は流祖作曲による独奏曲群、「都山流本曲」に、我流の奏法と解釈を手前勝手に書き加えた譜を、公式のものとして流に強制した。これが現在、都山流尺八楽会で受け継がれている「基本型」である。レコードなどを聞けばすぐに判るが、流祖や、直接指導を受けた初代・星田一山や初代・池田静山の演奏とは似ても似つかぬものである。

しかし高平は企画構成力には長けており、「基本型」は普及した。現在では本曲コンクールなども若手職業演奏家の登竜門の様相を呈するなど、活性化している。しかしこれは決して伝統などと呼び得るものではない。

中坊公平

都山流尺八「楽会」顧問弁護士を務めた。

流祖(初代)中尾都山による「岩清水」の演奏

●骨肉の争い

この分裂騒動は、世代を超えて、今に至るまで禍根を残している。

「楽会」本部(京都市北区紫野北舟岡町12)にある中尾家の仏壇のメンテナンス(お洗濯)を行うことになったおりに、稀一の位牌と法名軸(掛け軸)があったはずだとの騒動が巻き起こった。位牌と法名軸の引き渡しを求めて平成21年、中尾美都子(現新都山流宗家・京都市北区紫野北舟岡町27-170)は4代目「楽会」宗家となった中尾正幸(初代直系の孫)を相手取り、裁判を起こしている。

正幸の主張としては
・浄土真宗という位牌を作らない宗派なので、そもそも位牌は存在しない
・掛け軸は因隆寺に返還した。当時の住職は平成9年に他界しており確認はできないが通常は焼却処分される。
との事であった。

美都子の言い分は、
・写真や記憶上、仏壇に稀一の位牌がある。
・裁判過程で稀一の喉仏以外の遺骨が行方不明であることが発覚したが、きちんと供養しているならばこんなことはありえない。
との事で、のちになっても正幸に対する疑念に満ちた不信を周囲に伝えている。

この裁判は平成22年に調停が成立している。ほかに遺産や商標権、著作権収入の相続をめぐる裁判も行われた。現在の時点までに争われた裁判の数は、21にものぼる。

 商標権をめぐっては複雑な経緯を取っている。都山流の紋章の商標権をめぐっても裁判となった。演奏会のときに使用が推奨されることもあるバッジや楽譜の表紙にも、ごく最近まで紋章は使用されていた。
しかし和解の結果、紋章の商標権者は中尾美都子となり、使用権は楽会が持つこととなった。和解調書には無料の使用権が設定されているものの、以降現在に至るまで楽会は楽譜に紋章を印刷しなくなった。
また、楽会の各都道府県支部であっても、楽会の会員による有料演奏会にあたっては、チラシなどへの紋章の印刷は現在でも問題となる状態である。

4代目「楽会」宗家 中尾正幸

(初代直系の孫)
羽織の紋は都山流の紋章ではない事に注意。

●あとがき

組織の成功はアートであり、失敗はサイエンスであると言われる。成功は再現不能である一方で、失敗には必ず「定石」があり、似たパターンをたどるということである。都山流の分裂騒動には、倒産などの失敗劇にありがちな要素が全て含まれている。トップの愛人関係、腹違い親族間のお家騒動、財務不正、私的流用、無能な後継者、社会的使命感の欠失した問題児の貪欲、周囲VIPの傍観者的無責任、などである。最終的にはそれらが、組織の不可逆的衰退を招いているのも興味深い。

強烈な貪欲の主人公・高平、彼と対立する理事会の長たる政治家・富井およびその職人肌後継者・島原、芸者上がりの後妻・レンによる本家顔負けの「武韋の禍」、典型的ダメ二世の稀一、と役者がそろった稀有な組み合わせの上に、紛争は着火したとも言える。この紛争では「芸事」という純粋培養の夾雑物の少ない舞台にて、赤裸々に発現する時代に起こったことにより、彼ら役者が生き生きとしている。証言者の話は何回聞いても面白い。組織の失敗例の典型として教訓的価値が高いと考え、当事者の殆どが鬼籍に入ったことにも鑑み、公開する事とした。

●参考文献

児島正典書状-昭和50年6月10日

島原帆山反論書-昭和51年3月27日

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